「自己」を「嫌悪」なんて、これっぽっちもしてなかった。

若いころ。
いったい、どれほど安易に
「自己嫌悪」という言葉を
口に出していたんだろう、と。
いま振り返って、
呆れるのを通り越して
むしろなんとも言えず
微笑ましい気持ちになります。

自分のことなんて
これっぽっちも
「キライ」になんか
なってなかったじゃん。
自分のことが大好きで。
そして、もっと大好きになりたくて。
もがいていた、そのジタバタを
どう呼んでいいか解らずに
「自己嫌悪」と言ってたんだ、って。

ただひとつ。
思い違いをしていたとするなら。

「ほんとはもっとやれる自分」と
「いま、しくじった自分」を、
「その『ふたつの自分』を眺める自分」が
バラバラに切り離して、孤立させ、
勝手にさびしくなっていた、というところ。

「しくじった自分」は、
次回の答えを知っている。
本当にしくじったこともあるだろうし、
「実は、しくじってなかった」って場合もある。
その経験が、すべて答え。

そして
「ふたつの自分を眺める自分」は
その答えを、未来へ渡す。
その答えを受け取って
「もっとやれる自分」が、顔を上げる。

だから、切り離しちゃいけなかったんだ。
だって「仲間」なのだから。
「同じ自分」、なのだから。

ひたすらせっかちに
「自分を大好き」になりたかった私は、
仲間同士の手を切り離すことで
かえってとんだ遠回りをしていたことに
少しずつ気づいて。

そして少しずつ、少しずつ
「自分の中で
バトンが繋がっていくことのたしかさ」を
おぼえました。
少しずつおぼえて、
心と身体にしみこませたものは
血肉となり、体温が通います。

私は、「時の流れ」は
一方通行ではない、と思ってます。

ひたすらせっかちに
「自分を大好き」になりたかった私が
あの頃、待つことができたのは、
現在の自分が
たとえばこんなことを書くことで、
あの頃の自分へエールを届けているからだ、と
そう思ってます。

だから、
もしこれを読んでくれたあなたが
いま、”よし、いけるかも”と
そう思えたとしたら。

それは、お先に未来で
「楽しくやれている自分」から
エールが届いた、ってことなのだと
思うのです。

 

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