選択

選択

学生の頃、
何気なく食べていた
昼ごはんのカツサンドの脂身が
ふいに喉につまって。
この話すると
たいてい笑われるんだけれど
そのときの私は、本気で
死ぬ
んじゃないか、と思って。

いまだに、その時の感覚を思い起こすと
本当にクラクラするほどゾッとして。
だからそれ以来、脂身の取り扱いには
めちゃめちゃ慎重になっているし、
飲み込むことに自信がないときは
そっとギブアップすることにしています。

その時の感覚を思い起こすときに、
クラクラするほどゾッとする恐怖

と共に

私はいったい
何がそんなに怖くて、
更には、いまでも怖いんだろう

という自分への問いかけが
必ずセットでやってきます。

息がつまる
という本能的な恐怖も
きっとあるんだけれど。

死ぬ
こと自体ではなく、むしろ
死ぬ、
の周りにあるものへの
恐怖とか、かなしみとか
そういうものが
大きいのかな、と思ってます。

心と身体が両方ないと
味わえない、この世界の
すべてのヒト、モノ、コト
との別れは
私にはまだ、こわい。
だけど、この恐怖は
恐怖のくせに、ある一面では
希望であり、幸福である
とも、言えるのかもしれません。

心と身体が
両方ある状態で
味わう世界が
味気なかったり、
味わうことが
苦痛でしかなかったら、
「味わう」という行為は
心と身体を、この世界に
引き留める理由になり得ない。

引き留める糸をある時、
ぷつん、と切る人もいる。
もう擦り減って、
今にも切れそうになっているのに
繊維の、そのほんの数本で
繋ぎ止めている人もいる。

その糸を
強く、太くすることが
できなかった、と
嘆き、悔いる人もいる。

嘆き、悔いて
そして慟哭したあとに。
糸を切った選択へ、
「その選択を受け容れる」
という選択によって
応える人もいる。

あらゆる選択は
選択でしかなく。
そこに、○も×も
つけたくはなくて。

だけど
こわがりの私は
できれば、できることならば
すべてのひとにとって
この世界が、どうか
滋味あふれるものであるように、
あり続けるように、などと
願ってしまうのです。

心と身体が
両方ある状態で
味わう世界が
味気なかったり、
味わうことが
苦痛でしかなかった
自分の記憶と体温を、
慎重に、なるたけ正確に
よみがえらせながら。

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