The Gate of pink and white cherry blossoms—「先」の見えない、この春に

私の家の最寄駅前では、この季節になると
ピンクと白の桜が手をつないで、門をつくります。
この桜の門が、すごく好きなんです。
  
「先が見えない」ということは
人をおそれさせ、こわがらせ、気持ちをふさがせます。
それは、人生や仕事でもそうですし、恋愛もしかり。
  
なぜ、「先が見えない」と
くるしいのでしょう。くるしく感じるのでしょう。
  
私は、「先が見えない」と
「希望や安心感が、すこしづつ擦り減ってしまうから」
なのではないかな、と思ってます。

すこし言い方を変えると、
「先が見えない、と思い続けることで
 希望や安心感を、すこしづつ擦り減らしてしまうから」
と言っても、よいかもしれません。
  
人生は、この先どう進んでいくのだろうか。
仕事は、今後どうなっていくのだろうか。
あの人との関わりは、深まっていくのだろうか。
  
そこに、何かしらの
「希望の灯」が感じられるあいだ、
人は、歩き続ける勇気を持っていられます。
  
しかし、
「希望の灯」が見えないと感じられてしまったとき。
人の足取りは少しづつ遅く、重くなり、
ついには、その歩みを止めてしまいます。
  
人の足を一歩、二歩…と前に歩ませるものは
「安心感に下支えされた、希望」なのだと思います。
  
「期待」とは、すこし違います。
「期待」は、状況や環境、相手にたのむところが多いからです。
しかも、ある意味では「勝手」に。
  
——————
「先が見えない、と思い続けることで
 希望や安心感を、すこしづつ擦り減らしてしまうから」
と書きました。
  
これは、裏を返すと
「先が見える=希望や安心感を感じられる」
ということにつながります。
  
さらにもう一回、裏を返すと
「先が見えることこそが、希望や安心感の源だ」
ということにつながります。
  
だから人は、「先が見え続けること」を求めます。
ある人は、
情勢を先読みするといった術を、必死で学ぶのかもしれません。
ある人は、
占いや専門家の意見を、何十人も追い求めるのかもしれません。
ある人は、
より多くの食料や生活品を蓄え続けるのかもしれません。
  
個人的に私は、道徳的な面はいったん置いて
どの方法に対しても、実はあまり否定的な気持ちにはなりません。
だってそこには、どんなカタチであれ
「生きたい」という想いがあふれているのが伝わるからです。
   
ただ、ひとつ思うのは
「先が見えることこそが、希望や安心感の源だ」
と決めてしまってよいのだろうか、ということ。
「本当にそれだけしか、方法は無いのか」ということです。
  
あらゆる術を使って
「いま」から「先」の保証を
得ようと思っても、得られたと思っても。
それが「先」である以上、
それは「動くもの、変わりゆくもの」です。
  
希望や安心感をすり減らさず、増やしてゆくために。
「動くもの、変わりゆくもの」だけに救いを求めるのではなく。
  
この瞬間に、手も心も動かせる
「いま」から、希望と安心感を生み出したい。
  
人生を、この先どう進めていくか。
仕事を、今後どう形作っていくか。
あの人との関わりを深めるため、どんな工夫ができるか。
  
過去はどうあれ、未来はどうあれ、
いま、この瞬間から、何度でも創っていけるなら。
  
昨晩、この桜の門を観たときに
ふと、そんなことを思ったんです。
  
明日、そして来年の桜の季節に
希望と安心に満ちて、この門をくぐれるように。

 

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