「あたりまえ」と「フツー」が、ごきげんを遠ざけるのなら。

自分で言うのもアレなんですが、
私は、”自分が機嫌よく過ごすこと”に関して
年々、超しつこく、超ワガママになってるなあ、と思います。

「フキゲンになる要素は、極力排したい。」
大げさでなく、生活する中でベースになってる想いは
基本、コレと言っても過言ではないかも。

フキゲンになる要素には様々なものがありますが、
自分の中に在る「あたりまえ」と「フツー」のものさし、
これは、かなりごきげんを左右する要素だと思っています。

“こういうときは、こうするのが当たり前でしょう?!”
“こういうときはフツー、こう考えるべきだよねー…”
“こんな当然のことが解らないなんて、マジありえないんだけど!”

…ね?
何だか、見てるだけでこみ上げてきちゃいますでしょ(笑)?

「あたりまえ」と「フツー」はたぶん、
人の数だけ存在するんだろうなあ、と私は思います。

隣のあの人の持つ
「あたりまえ」と「フツー」のものさしは、
私が持つ「あたりまえ」と「フツー」のものさしとは
色も形も、大きさもちがう。

私には、ごく当たり前に見えているものが、
隣の人には、まったく見えていないのかもしれない。
隣の人が、当然のように理解しているそれを
私は、逆立ちしても解らずにいる。

自分仕様の「あたりまえ」と「フツー」のものさしを
双方が振りかざし、繰り広げられるバトル。

「フキゲンになる要素は極力排して、
ごきげんに過ごしたい」私としては
ゆえに、自分の中の「あたりまえ」と「フツー」を
ぜんっぜん、信用していません。

「あたりまえ」と「フツー」のものさしを捨てて、
じゃあ、どうするのかと言えば。

聴く、たずねる。
これに尽きるかなあ、と思ってます。
それが叶わぬときは、想像してみる。
“悪いほうに想像しない、決め付けない”
ってコツが要りますが。
想いを馳せてみる、っていった方がいいかな。

皆まで言わぬ美学もあるし、
そうした「粋」も、好きなんですけれどねー。

でも、やっぱり私は
とことん、「ごきげん」を選んでいたい。

なぜって、きっと
「私がごきげんでいること」は、
「誰かがごきげんでいられること」に、つながると思うから。

 

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