自分に「向き合う」のではなく、「隣に居よう」って、思ったんだ。

今日、帰りに電車に揺られながら
”思えば、ずいぶん生きやすくなったなあ”って、ふと思ったんです。
どちらかというと、生きづらさを感じて、もがいていた部類のやつだった、この私が。

で、「どうしてかなあ」ってぼんやり考えてて、また思ったんです。
「ああ、”何とかしなくちゃ”って、思わなくなったのかも」って。

自分と向き合う。よく耳にすることばです。
大切な、生きる姿勢のひとつとしてあげられます。

うん、確かにそれはそう、なんだけれど――。

これ、あくまで私は、なんですけれど。
自分の「生きづらさ」と”向き合った”とき、
「何とかしよう、分析して、解決しなくちゃ」って
ちょっと躍起になっていたような気がするんです。
そのことで、結果的に自分を追いつめていたところもあった。

その道程で気がついたことは、いまでも大切な宝物です。

でも、いつの頃からか
「自分と向き合う」のではなくって、
自分の隣に並んで腰をおろして、
自分が観ている情景をいっしょになって
ぼんやり眺めるような、そんな心持ちになってたんです。

他の人たちになら、たぶんそうするであろうことを
自分自身にもまた、自然とするようになったんだと、そう思います。
「そっか、あなたの観ている世界は、こういう世界なんだね」―って。

自分が、自分の隣に居られるようになってから。
不思議と、あまり悩んだり、落ち込んだりしなくなりました。
おもしろいもので、個人セッションの空気も変わったような気がします。

隣に腰をおろして、自分の、そして誰かの世界を
「共に眺めることのあたたかさ」を信頼することで、
「何とかしなくちゃ」なんて思わなくても
「何とかなってゆく力が湧いてくる」ことを実感しました。

私は、「生きやすくなった」わけではなくて、
「生きづらさをつまはじきにせず、仲間にした」
だけなのかもしれません。

 

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